2008.01.07

福井実践国語の会

福井実践国語の会 冬季研修会に参加してまいりました。

実践報告に興味深いものがたくさんありました。

まずは、福井大学附属小の先生のご実践
これは語彙の指導だと思いました。冬という季節から連想する言葉を挙げていき、それをカテゴライズしていくという展開なのですが、すごいのはこれが小学校1年生の実践だということ。ユニークなのは語彙の指導から表現の指導につなげている点。それも、「学んだことを使いましょう」という形で、子ども自身に実感される形で提案しているところ。だから、指導だけでなく、子どもの学習になっている。
ところで、実際に分類されたものを見てみると、分類の観点が「寒い」「冷たい」などの形容詞、「遊ぶ」などの動詞などさまざまであって、このへんをどのように分析していくといいのかと思いました。

次は、鯖江市吉川小の先生のご実践
こちらは話し合いの授業だと思いました。「〜さんに似ている」や「〜さんに対して」という言葉を使わせていくことで、文学的文章教材での話し合いを価値あるものにしようとされていました。ユニークなのは、初発の疑問を場面ごとに整理している点。そこから課題作りへとつなげておられます。ただ、課題のカテゴリーはさまざまで、「作者の意図」もあるし「登場人物の心情」もあります。このへんの課題を深めていく中での、子どもたちの読みの交錯を授業者がいかに整理するかがポイントだと思いました。考えを深めていくには、前の発言だけでなく議論全体を見渡してときには反対することも大切なわけで、その役割を子どもがするのか、教師がするのか。会での議論は、議論を深めるためのツールとしての板書や教師のコーディネイト力が問題になりました。自分自身は、教室空間での話し合いのあり方の問題として興味深いと思ったのですが・・・。

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2007.08.14

第4回教育のアクションリサーチ研究会

8月1日、2日に行われた「教育のアクションリサーチ研究会」に参加してきました。
今年は(今年から?)、会場がホテル大野屋さんに変わっていました。
私自身は、2年ぶり、3回目の参加になります。

初日は、全体会のあと、実践者グループと研究者グループとに分かれて分科会がもたれました。
私は、一度覗いてみたかったので、研究者グループに参加しました。
2人の方が報告されましたが、研究者ってこういうこと考えるのかと興味深かったです。
どちらも子どもや教師の発言をカテゴライズすることで、定量的に分析しようとしているのかなあと思いましたが、そのカテゴリそのものにかなり主観的なものが入り込んでいるのでは?との印象を持ちました。

その後、全体での「高校学びの広場」についてのシンポジウム。
エネルギーを感じました。

二日目の午前中は、いくつかのグループに分かれて、授業実践の検討会が行われました。
私も拙い実践を報告しました。
机の組み方や子どもとの位置関係など、新鮮な指摘がうれしかったです。
もっとも、「1時間の授業をそのまま見せた方がいい」という指摘は、自分自身には抵抗がありました。
(このへん、授業検討会の文化のちがいを少し感じました。このことは午後のシンポでも少し話題になりました。)
今度、福井大学にいらっしゃることになった、お茶附小の石井恭子さんの実践報告も聞けました。

毎年恒例のカレーを食べて
午後は、シンポジウムで終了となりました。

こまかな内容については、もし機会があればリポートしたいと思っています。

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2004.08.04

教育のアクションリサーチ研究会

8月2日、3日と熱海で開かれた、教育のアクションリサーチ研究会に行って来ました。1日目は、研究者班と学校実践者班とに分かれての研究討議と佐藤学さんの講演。2日目は、午前中が事例検討会、午後がシンポジウムという日程でした。
実践者側も中堅教員から教頭、校長といった管理職、研究者側も博士課程の院生からベテラン研究者までとバラエティに富んだ顔ぶれであり、その参加の目的もさまざまといった感じでした。会長の佐藤学さんや事務局の秋田喜代美さんは、確かによく登場しましたが、会の進行や方向性については、参加の人たちの思いを大切に進行しようという意図が感じられ、一部の人たちが噂していたような佐藤さんの意向だけが反映するという会ではなかったように感じました。もっとも、そのために、何かを教えてもらおうと思って来た人にとっては、なんとなく中途半端で頼りないような印象があったかもしれません。
何にしても参加の方が本当にたくさんいらっしゃって、さまざまなことを調整されていた事務担当の方々は本当に大変だったと推察します。福井の方の会が、もっとゆったりもっとじっくりと実践を聞きあう関係をつくっているだけに、その点は少々残念でした。あと、ラウンドテーブルが意味する、みんなが同じ関係で席につくという原則は、こちらの方は少々不徹底だったようにも思います。
もっとも私はミーハーなので、有名な先生方をたくさん生で見られて、言葉を交わせたというだけで、たくさんの気を注いでもらったという感動があります。
まあなんにしても1回目、これからますます方向が収斂して充実した会になることを願ってやみません。
というわけで、会の注目すべき議論については、次の機会に。

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2004.07.06

らうんどてえぶる

福井大学のラウンドテーブルという集まりに参加してきた。私自身もう3回目の参加になる。
今回、私自身は「事件ファイルづくり」の授業について報告したのだが、ここでは、小グループでのもう1つの報告、福井大学の「探究ネットワーク」について書く。
「探究ネットワーク」は、福井大学の学生たちが、子どもたちとともに行っているもので、運営を通してさまざまなことを学んでいる。いくつかのブロックに分かれて、さまざまな活動を展開しているが、今回報告してもらえたのは、デコボコ探検ブロックという、キャンプを中心に活動しているもの。
「探究ネットワーク」は、どのブロックも体験とそこで学んだことの表現という2つのことを繰り返しており、「探検ブロック」も、春夏秋のキャンプ体験とそこでの学びの表現という3つのサイクルで展開している。昨年の実践では、3回とも同じキャンプ場でキャンプすることで、「夏(秋)にはこんなことをしよう」という、次の展開を子どもたち自身が構想することをもくろんでいたという。
このような構想が可能なのは、スタッフ側が今年初めて経験する1年生だけでなく、昨年経験した2年生、2回の経験がある3年生とそろっているから。それも、1年生は小集団を任され子どもたちと直接関わるのに対し、2年生や3年生は、全体をみるような仕組みになっているからだと思われる。このあたり世代継承サイクルがうまく機能するようになっている。
実際、報告してくれた学部の3年生の方(実践のときは2年生)も、そのことを意識した発言をしており、それも初めて経験する1年生に寄り添うような形での発言が目立っていた。
それでいえば、そこで紹介された1年生の書いた文章も、子どもたちに寄り添うような形で、彼らの成長をとらえるとともに、自分自身の実践への関わりを振り返る味わい深い文章であった。中でも感銘を受けたのは、「子どもたちの見る目とスタッフが見る目はちがう」「スタッフである自分は、成功をめざすあまり、成功の障害になる子どもという眼で見てしまったが、今の楽しさという眼で見る子どもたちは、もっと別の見方をしており、その眼が結果的に、その子を育んでいく」というあたり(文章はちょっと私なりにアレンジ入ってます)。「うーん、そこまで気づいたか」って感じです。
ベテランの教師でも、そういうところに気づかない人、いっぱいいるのにね。
そこらへんは、当日も強調されていましたが、実践を記録しながら振り返るという営みによるところが大きいのでしょう。そのことを強調した松木先生のプレゼンにも感銘を受けたのですが、それについてはまた別の機会に。

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2004.03.15

ラウンドテーブル

昨日、福井大学でラウンドテーブルという催しがありました。こういう名称の会は、現在いろいろなところで行われていますが、今日のそれは、研究者と実践家とがテーブルを囲み、実践を丹念に語り聞くという場でした。
教師どうしが実践について語るときには、授業の意図とその達成や、授業を離れた指導方法とが問題になることが多いのですが、ここでは、授業の中で子どもがどのように学んだかということが中心の話題となりました。
私の参加したグループでも、私の国語の実践と信州大学附属松本中学校の先生の音楽の実践とが検討の対象となりましたが、参加の方々の丹念な聞き取りのおかげで、自分の実践をあらためて振り返ることができました。

そこで思い出したのが、この会にも参加されていた秋田喜代美さんの論文でも紹介されていたShulmanの言葉です。Shulmanは、事例研究について、事例材料、事例報告との違いを指摘することで明らかにしています。事例材料が生のデータであり、事例報告が第1人称での語りであるのに対して、事例研究は、それらをふまえた3人称での表現であるというのです。

この会でも、松本の先生が生のデータを持ち込んだのに対して、参加者が産婆役となって、授業の中の子どもの姿を浮き彫りにしようとしていました。これは、語りとしての事例報告を引き出そうとしたものと言えそうです。また、数名の子どもと教師の姿を描いこうとした私の事例報告に対しては、こういう可能性もあったのでないかという別の読み解きが提案されていました。

実践家が研究者と語ることの意味を改めて感じた催しでした。もっとも、そのことが研究者にとって、どのようなベネフィットがあるのかが問題にされもしましたが。

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2004.01.01

村の茂平というおじいさんから

先日,地元での国語教育の研究会でのこと。ベテランの先生方が「ごんぎつね」をめぐって討論をされる場面があった。「これは,わたしが小さいときに,村の茂平というおじいさんから聞いたお話です」というところにこだわって,「茂平さんあるいは新美南吉が,なぜこの話をしたのか」と問いかけてみたいとT先生が提案したのがきっかけだった。
 難波博孝さんの言葉を借りれば,「物語世界」「語りの世界」「現実の世界」ということになるのだが,作品世界は大きく三つに分けられる。「ごんぎつね」についていえば,「ごん」や「兵十」が位置するのが「物語世界」,その物語を語っている「わたし」が位置するのが「語りの世界」,そして「新美南吉」や「読者」が位置するのが「現実の世界」である。
もちろん「読者」を「同時代の読者」とか「内包された読者」とか考えたりすれば,「現実世界」はもう少し細分化されるし,語りの機能をもっと厳密に考えれば「語りの世界」もさらに細分化される。しかし,モデルとして大切なのは,これまで二層で語られてきたものを,「語りの世界」という概念を入れることで三層にするというところである。こういうモデルは,細かくすればいいというものではないからね。
 さて,T先生の提案もおそらく,そのへんと絡んでいる。「語りの世界」と「現実世界」との峻別が十分でないので,ああいう言い方になったけれど,本当は「茂平さんはなぜわたしにこの話をしたのか,そしてわたしは今なぜ同じ話を誰かにしているのだろう」という問いかけをすることで語りの伝承性の問題を提起したかったのだと思う。もっとも,「ごんぎつね」のこの部分については,甲斐睦朗さんが,「村の茂平というおじいさんもまた,小さいときに『ごんぎつね』の話を聞いて長年心に温め続け,おじいさんになってから孫や近くの子どもたちに語って聞かせたことになる。」という指摘をされていて,その意味では以前からされていた指摘だったとも言える。ただし,甲斐さんは,そのことを作品の読みには統合していないし,手近な実践記録や教材研究でも,あまり問題にされていないのでもっときっちりと考えていく必要があると思う。

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