2004.08.25

授業ってどう記録するの?

 いうまでもないんだけど、授業を何らかの形で記録して他人に見せるのは、その授業あるいはこれからの授業ををより良くするためなんだよね。だから、本当は授業をずっとみてもらう、それもその人が子どもにとって風景化しちゃうところまでやれるといいんだけど、まあ、そんなことは不可能。
 そこで現状では3つの方法が考えられる。1つはやっぱりビデオを撮る方法。2つめはポートフェリオ、3つは授業者自身が文章でまとめて書いてみることだ。この3つはお互いに補完的な関係であり、どれか1つを選ばなければならないというものではない。

そういえば、先日の熱海のアクションリサーチ研究会でも、圧倒的にビデオを見せる人が多かった。すごい話だと40分以上、見せた人もいるらしい。でも、やはりビデオだけではわかりづらいことも多かった。学校の中でビデオをつかって授業研究を行うというのと、いろんな人が来ているところでビデオだけで授業を分かってもらおうというのは、やはり違うんじゃないかな。(もっとも、ビデオも編集されていえば違うと思う)

考えてみれば、すべてを見てもらうことが不可能な以上、何らかの文脈を言葉で補いながらビデオを見てもらっているはずで、そうであれば、子どもの学習物やビデオも併用しつつ、実践家自身が子どもの学びを筋にしてみせる方がより理解されるような気がする。
その上で、聞いてくれる人が実践家の授業を相対化できるだけの資料、例えば子どもの感想だとかTC記録だとかも用意できればいいのではないだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.08.20

教育実習にむけて

今年もいよいよ教育実習がはじまる。昨年は大学院にいたので1年ぶり、7名の実習生を担当させていただく。
実を言えば、この教育実習、私の学校でももっとも研究が進んでいないというか、研究の俎上にあがっていない分野である。
自分たち自身の実践的成長については、専門教育の新しい考え、たとえばショーンのもの、などから学んで、大学教官と協働しながら実践を豊かなものにしながら、専門的に成長することをめざしているが、「教育実習」となると、旧来のパターンを脱していないように思う。(「ショーンが新しいのか」というツッコミが入りそうだけど、彼の提案するような専門教育のあり方は、まだ一般化していないと思うので・・・)
それは例えば、「大学で学んだ一般的な専門知識を教育現場で実践しよう」というような大学教官あるいは学生の心のあり方であるし、「とにかくやってみるしかないんだ」「先生のやり方をまねてみろ(よう)」というような現場教員あるいは学生の心ばえとなって現れている。

ショーンは、「実習」での学びを、日常世界と実践の世界の間に用意された「実践を学ぶために用意された状況」との「反省的対話」として規定している。どのような状況を実習生に対して用意するかがもっとも重要であるということであろう。細切れの1時間1時間の授業でなく、単元そのものを実習生とともにデザインしていきたい。「これからどうするか」というような、「対象の操作の仕方」に頭を使うのでなく、「状況そのものとの対話」子どもの今を見つめるような授業研究を共に行っていきたい。それが可能であるような状況をつくっていきたい。

そう考えて見ると、実習生が7人と多いことも必ずしもマイナスとばかりは言えない。「実習生」と「現場教員」(できれば「大学教官」も)でコミュニティが形成されていく中で、個々の実習生の主体性が形成され、「実践家として考える」スタイルが身に付いていくことこそが、実習の意義だと考えられるからである。

ちょっと抽象的になってしまった。具体的には新聞記事をつかったプロジェクト単元をいっしょにデザインしていくことで、子どもそのものを見つめ、教材を選択していくような状況を考えているんだけど・・。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.05.27

教科書にない教材を用いる意義

教科書を見ると、いつも感心してしまう。
新しい教材が採用され、それに手引きが載せられている。偏りがないように教材が配列されている。古くなって授業をする上で、さまざまな障害が増えてきた教材がそっとはずされている。本当に、その気配りには敬服する。

それでも(それゆえに)教科書は、ある種の権威だ。
かつては、その権威性と教師の権威性は二重写しとなって、ほぼ混同されて高めあっていたのだろう。
教典とそれを司る聖職者のような関係と言ってもいいかもしれない。

しかし、教師が、教科書の解説者であることをやめ、子どもとともに作品を読みあう解釈共同体の一員であろうとするときに、その権威性は逆に障害となる。したがって、教科書とともに歩みながら、教師が教材を批判したり、教材によって教師が批判されたりするという芸当が必要となる。

教科書以外、あるいは別の教科書から教材を用いることは、教材の選択性という、本来教師が当たり前に行うべきことがらを浮き彫りにする。ただ単に、別の教材を用意しただけであっても、教師がその教材にほれて採用したという印象を得ることができるのだ。
そこでは、子どもは教科書教材の持つ閉塞感から逃れ自由な読みを展開できるかもしれないし、教科書教材では願うべくもない、教材の部分提示などの方法を教師は活用することができる。

このようなメリットがありながら、採択されている教科書以外からの教材の採用がためらわれるのは、まず第一に定期テストの問題が大きいと思うが、これについて項をあらためて書くことにしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)